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藤田陽子 (子役) : ウィキペディア日本語版
藤田陽子 (子役)[ふじた ようこ]

藤田 陽子(ふじた ようこ、1919年7月25日 - 没年不詳)は、日本子役女優である。姉は同じ子役、女優の藤田房子
== 来歴・人物 ==
東京市麻布区(現在の東京都港区)生まれ。1923年4月、姉・房子と共に松竹蒲田撮影所に入社〔『日本映画人名事典 女優篇・下巻』キネマ旬報社、1995年、p479。執筆者は司馬叡三。〕。同年公開の野村芳亭監督の『母』でデビューした。その後も出演を続け、1926年の『曲馬団の姉妹』(斎藤寅次郎監督)で小桜葉子と共に主演。
この頃の松竹では、高尾光子小藤田正一、小桜らの子役が評判を集めていて、藤田姉妹も彼女らに負けない人気を保っていた。ただ、姉妹2人では陽子が人気を一歩リードしていた〔『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、p503。〕。
1933年公開の日本初のトーキーアニメ力と女の世の中』に声の出演をする。
1934年に子役から一般女優に昇格したが、この年の終わりに姉と松竹を退社〔〔『キネマの美女 二十世紀ノスタルジア』 文藝春秋、1999年、p140。〕。
1935年、姉・房子とともに笑の王国に参加。約一年ほど活動ののち、1936年10月には姉妹ともに退団する。房子はその後古川ロッパ一座に入団するが、陽子は病気療養のため引退〔『都新聞』1936(昭和11年)10月7日付p7演芸欄〕。
1938年大森区新井宿(現・大田区中央)へ転居〔『都新聞』1938年(昭和13年)5月9日付演芸欄〕。その後時期ははっきりしないが、2007年に出版された「古川ロッパ昭和日記」〔『古川ロッパ昭和日記 戦前篇 昭和9年‐昭和15年』(2007年/晶文社)p133〕1938年(昭和13年)11月24日の文中によると「藤田房子、妹(陽子)危篤とて東京へ帰ってしまひ」とあるのでこの日以降間もなく没したと思われる〔東宝発行所の雑誌『エスエス』1939年(昭和14年)11月号の大辻司郎による記事「ロッパ一座の梅幸・藤田房子 賛」で「その片方の陽ちゃん(陽子)は、若く美しくして亡くなりましたので…」とあるので、遅くともこの年の秋前までに死去していたことがわかる。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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